2007/05/03

「ブレードランナー」まであとわずか

 フィリップ.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" を映画化した「ブレードランナー」 "Blade Runner"が発表されて、1/4世紀が経つ。
 だが、映画のクライマックスの台詞とそのイメージは、私の中に強烈に記憶されている。このネクサス6型アンドロイド「レプリカント」ロイ・バティの最後はインターネットの出現とともに、そのアーカイブの中に取り込まれた。20世紀の歴史に刻まれる「1コマ」となるかもしれない。


 "I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain.
Time to die."
 「俺はお前たち人間が信じられないようなモノを見てきた。オリオンの肩の傍で炎に包まれる攻撃型宇宙船、タンホイザーゲートの近くの暗闇の中で光輝くCビーム。それらずべての瞬間はときが来れば失われる、雨の中の涙のように。死ぬ時だ。」


 この台詞自体は、脚本家によって何度か書き直された映画のスクリプトで採用されたものだが、ディックは最終的なスクリプトの内容に満足していたらしい。だが、不幸にも映画の発表を前にして世を去っている。

 原作 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" は1968年の作品であり、ディックの想像力には驚かされる。冷戦時代の恐怖がそのままプロットになっていると言われるが、アンドロイドや空飛ぶ自動車が出現していない他、何が今の現実と異なるのだろうか。
 放射能に汚染された酸性雨がいつ降るようになってもおかしくない。それでなくとも気象の変動は大きな問題となっており、酸性雨はとっくに現実化している。

 また、それ以上にこの作品に惹かれるのは"本物とにせものの交錯"による私たちのアイデンティティへの問いかけである。
 本物の動物の飼育がステータスとなっていたり、人工の動物が飼育されていたりという、1960年後半どころか80年代にさえ思いもよらぬことが、今は現実化している。生まれたての感情をコントロールできないアンドロイドのひきつった表情とその行動が現代の抑圧された人間像に重なることも度々である。彼の問いかけたとおり、生身の人間や自然と、人間が造ったものとの境界は徐々に我々の生活や常識の中で区別をなくしつつある。ディックの優れた洞察力を思い知らされるばかりである。

 思えば、学生時代にこの映画を通して始めて、「暗い未来」を感じたのであった。暗い未来を否定したいばかりに、テクノロジーに対する関心を持ちつつも、人工的でないものに憧れを抱いてきたのだと思う。
 最初に公開された劇場版に追加されたラストシーンのように、大自然の中に逃げ込みたかったのだ。
 しかし、現実は叶わず今でも都市生活を余儀なくされている。ただ逃げたいだけでは答えにはならなかったのだ。私は未だにその答えを得ていない。
 ブレードランナーの時代、西暦2019年まではあとわずかでしかない。

 It's too bad she won't live. But then again, who does?

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