2007/03/11

京都議定書(Kyoto Protocol)

 京都議定書(Kyoto Protocol)が議決されたのも10年前のことである。当時の米副大統領アル・ゴアは批准を推進したが、電力・自動車業界などの反発に合い、クリントン大統領は批准を断念した。続く、ブッシュ政権はこれを継承するとともに、「温暖化の事実の否定」さえ行なっていった。最近公開された、アル・ゴア自身による「不都合な真実」にはそのことが、克明に描かれている。一旦は彼が大統領になったかに思えた選挙は、フロリダで最終的にブッシュに敗れることになる。落胆の一瞬。マイケル・ムーアの「華氏911」の1シーンが思い起こされる。
 そして、不都合な者を「テロリスト」と呼び、戦争を正当化するプロバガンダが横行し、世界中を巻き込んでいく時代に突入していった。同じく最近に公開されたクリント・イーストウッドの「父親たちの星条旗」には政権が戦争遂行のために行なうプロバガンダが作られていくさまが描かれている。
 まともな考えが通用しなくなってしまったような時代においても、米国にはこうした現政権を批判する作品がつくられ公開される。そうして、二大政党制特有の揺り戻しがある。批准されていない京都議定書への見直しの動きも出始めている。米国の批判精神は健全さをまだ保っていると言えるだろう。

 EU諸国は-8%の数値目標をクリアする国々が出始めている。オランダのロイヤル・ダッチ・シェル社では所有する古いパイプライン施設を転用して、CO2を契約した農場に販売するシステムを構築。農場では余剰のCO2を購入してプラントにて植物に配布することで収穫量を向上させているという。エコノミーとエコロジーが両立したわけだ。

 京都指定書に批准した我が国の目標数値は-6%。しかしながら、10年後の現在の実情は+8%である。ブッシュ政権時代に米国に追随していった我が国は、CO2増加においても米国に追随したようだ。
 米国は今、政策を変えようとしているし、もはやブッシュ政権は末期を過ぎようとしている。しかし、現在の日本政府と米国政府とのつながりは希薄なように見える。最近では外交方面においても米国にふられているようだ。
 そもそも、この10年間も誰かのパフォーマンスばかりで、米国との良好な関係があったとは思えないのだが。それが証拠に米国嫌いな人々は最近やたらと増えたような気がするは、気のせいだろうか。

 ところで、この10年たいした経済発展もしていないように見え、大目に見ても8%のCO2の増加に値する生産性が向上されたとは思えない。どうみても非効率なことが行なわれているとしか考えられないのだが、その正体は何だろうか。

 例えば、10年前にはありえなかったこととして、サービス残業がどこでも当たり前になったこと。残業というコストが削減されたのではなく、残業というコストを考えなくてよくなった。すなわち時間あたりの効率を上げること、時短ではなく、成果のみを求めて効率を「自己責任」として押し付けることが当たり前になったことがあげられる。また正社員を減らし、パートタイム、派遣社員、外注化によって固定人件費を削減し、尚、正社員と正社員以外の差別化を徹底化するなども賃金を下げることに徹底した結果といえるだろう。
 これらが、結果として非効率な生産に影響しているのではないかと考えるのは私だけだろうか。

 「正社員だけが有能なわけではない」と主張する派遣社員が活躍するTVドラマが流行っている。マンガのような話だが、私も共感するところがある。97年頃、私は某携帯電話会社に派遣社員として勤めさせていただいたが、当時仕事が面白かったのは、派遣社員の私を正社員と同等に扱ってくれようとした叩き上げの上司がいたからだ。ダイナミックな人材登用がそのときにはあり、派遣という勤務形態もそれに一役買っていたと思えるのだが、今は全く別方向の方向に向かっている気がする。

 一方で、教育問題が喧伝されているわけであるが、「何をいまさら」と私は思ってしまうのだ。
私の生まれる以前から肩書きだけの「学歴社会」という問題はあった。しかし、未だにこの問題が放置されたままどころか、デファクトスタンダードばりに改善される兆しもない。肩書きだけの「学歴社会」のために「受験戦争」があり、「考える教育」がされなかったのではないか。そのための「ゆとり教育」ではなかったのか。結局「ゆとり教育」とはカリキュラムを減らしただけの「ゆるゆる教育」であったことが判明したが、文部科学省はそれを認めようとしない。「受験戦争」の勝者である彼らは「間違えない人々」であるわけだ。
 しかし、間違えもしなければ、新しい答えがでるわけでもなく、「美しい国」づくりのための教育がされていくのだろうか。CO2削減にも貢献できない美しい国のために。

 指導力、判断力、批判力、これらが今後のダイナミックな10年に必然のものとなるはずだが。子供たちの教育を考える前に自分たち大人の社会の見直しをしなければならないと思うのだが。大人が変われば子供も変わるのだから。