2013/04/28

「森の蘇り+古民家再生+αプロジェクト(仮)」を始めようかな?


古いものに価値を見いだすというより、「モノを大切に使う、もったいないと思う」ことなのだ。
建築士さんの話を聞くうちに、何故、手間や時間のかかることを続けてこられたのかがわかったような気がした。
「和風の照明器具」
文様はプリントでも張付けでもなく、一枚板を彫ってつくられていた
こんな手の込んだ細工をちょっと昔にはやっていたんだよね日本人ってすごい。


結婚したての頃、愛知県西尾市にある稲垣家の本家に始めて行った。
江戸時代からの庄屋であった稲垣家の本家は両手で抱えるほどの太い大黒柱の立つ、築200年を超える家だった。
その家も維持することができなくなり、今は土地を子割りにした分譲住宅地となってしまった。
それでも本家は、できる限りその家を維持してきたのだった。

私の家は祖父からの材木商だった。祖父は秩父の山を自分の目で見、その山からどれだけの材木を得ることができるかを測る「山師」として、秩父の木材を買い付け、熊谷市でそれを売っていた。
祖父、多田秀太郎は山から木を見てきた人であったので、そこから得た材木の性質をよく知り、家の部材として、どこにどの材料を使ったらよいかを大工さんたちに教えることができた。この「適材適所」を知らせることができたことで「丸秀木材」の木材を使った家は立て付けが狂わない家となり、定評を得ていたという。
しかし、私が子供の頃の高度成長期には、すでに外材や新建材が多くを占めるようになっていた。
大工の棟梁ではなく、住宅メーカーが建てたときだけ見た目が小ぎれいなだけの安価な家を供給する時代となっていた。
そして、石油ショック以降、状況はどんどんと悪化し、父の時代「丸秀木材」は倒産してなくなった。私が高校2年の頃だ。
父の性格、手腕も問題だったかもしれない。しかし、熊谷市中の材木商はほとんどなくなった。地元に根付いた地場産業は終わっていった。

大学卒業後、飛騨で家具作りを行っているO社に行ったのも、こうした私の出自があったからであり、今の既成産業で働くという事に何らの興味も持てなかったためだ。しかし、代表と反りが合わなかったことや、自分自身がまだまだ未熟であったことで半年も立たずにそこを止め、一旦大学に戻った。
ある意味、自分で「新卒」というチャンスを棒に振った私は、何がしたいかではなく、何ができそうかという選択枝を選ぶ人生のスタートを歩み始めた。

インターネットの時代、30代後半にも関わらず、この新しい産業への可能性を信じてITエンジニアとなった。
その選択は間違っていなかったと思う。今でも飯のタネになっているのはこの仕事だ。
自然環境への関心とが結びついていたので、個人が情報発信できるという仕事は色んな可能性を広げてきた。
しかし、それだけでは駄目なのだということは、311の事故後、特に日々実感していることだ。
「福島の原発事故」は、経済成長ということも含めて、すべてのベールを剥がしてくれたのだと思う。
私の生きている時代というものが、一体どういう時代で、どういう時代が今後訪れるべきなのか?
そういった一切の気づきを含めて、今、この時が私にとって人生最大の転機になってきていることは間違いなさそうだ。

再び、多くの人が地域に根ざした生き方を作り上げないといけない。
グローバリズムやお金だけでは、人々は幸せになることはできない。
限られた資源を有効に使うためには、時間と手間を惜しんではいけない。いや、時間と手間を楽しむ生活ができる生活こそが豊かな生活なのだ。
自分でつくったり、治したりしながら、それを楽しむこと。
それはそれほどたいそうなことではないはずだ。ただ忘れてしまっているだけ。
使い捨てられることが前提の新しいものに買い替えて、古いものをポイポイと使い捨てる生活。
そういう愛着のないものに囲まれた、愛着のない生活は、結局、目の前にスマートな気がするものがあるだけで、解決できないものを見えないようにしているだけ。

だから、今こうして、それを修正していくためのチャンスが目の前に現れてきたのではないかな。
少しずつでもいいから、同じようなことを考えられる仲間を集めて、ボツボツやっていければいいなと考えている。
ワークショップは、近くの森の間伐や、今やり始めている風車とか、再生可能エネルギーのこと、自分の身体を見直すヨガや、食べ物のこと(畑もあるからね)、生活のあり方を見直すものなら、なんでもありで、みんなでワイワイやればいい。
大それた事ではないよ、きっと。