2012/12/15

「杉並区民でない私が何故、山本太郎氏を応援するのか」


311以降の山本太郎氏が何をしてきたかを知らない人にとっては、タレント議員じゃないかと思っている人も案外いるということを知った。もし、そう思っている「友人」がいるなら、是非そう決めつけずに聞いて欲しい。
山本太郎氏の活動を知っている人にとっては周知のことだが、そうでない人にとっては初耳のこともあるだろうから【拡散】していただけたらありがたい。



「タレント議員」が何故だめなのかというのは、かつて知名度だけを利用して、議席を獲得しようということが多く行われたからだろう。タレントが国会議員として仕事ができないというのは偏見でしかない。タレントがダメなら歯医者だって学校の先生だってダメなはずだ。職業でその人の能力を規定するのは誤りだ。

国会議員は誰でもなれる。かってK泉チルドレンとかで、全くアホな議員が誕生したように。あるいはベテランの議員が本当に国のために仕事をしてくれているのなら、こんな国にはなっていないだろう。
逆に言えば、官僚のようなエリートでなくとも、真剣に学び行動すれば学歴を問わずに活躍できるのが国会という場であり、だからこそ国民のための「代議士」であるのだ。
明確な意志を行動力を持ち、真剣に、そして自らの生活を投げ打って国政に参加している議員が一体何人いるだろうか。
山本太郎氏は間違いなく、そういう議員になってくれると私は確信している。

かつての「タレント議員」はタレントであることを利用して政権の提灯持ちをしてきた。
当然、タレント業を奪われることはなく、その利益は色々な方面で増大する。
しかし、山本太郎氏の場合はそうではない。
まず「原発に反対し、福島の人たちの避難を勧める」こと自体が自らの生活の基盤である芸能活動から排除されることであった。彼はそのことを重々しりながらも決断をし行動してきた。
少々語弊があるが、環境保護や自然保護を訴える人であっても、原発に対して発言をすれば、その基盤を失われる心配から口を閉ざす、(閉ざさざるを得ない)人は少なくないのだ。
組織のしがらみのない私などは好き勝手に言っているが、それでも「仕事の受注に影響があるかもしれない」といった小心が起こってくる。
タレント業にとって、それがどれだけ深刻な事態をもたらすか、それは想像に難くない。
さらに、もし彼が「タレント議員」を望むなら、どこかの政党に囲ってもらえばよかったはずだ。
彼が立候補すると表明したときに、すでにそういう引き合いはあったと聞く、しかし彼はそれを断り、「今はひとり」を立ち上げた。

それでも、「脱原発のスター」となることは人気とりではないか、と思う人もいるだろう。
しかし、山本太郎氏の行動や発言のすべてが「脱原発」を唱えるすべての人に支持されているのかと言えばそうでもない。福島の被災者の方へ向けた発言や行動は賛否両論があった。
今でも尚、福島の被災者の方々の扱いや、食品を含む放射能汚染や瓦礫処理の問題は、議論の別れるところだ。
このことが所謂「シングルイシュー」としてまとまりが持てない要因のひとつにもなっている。
そのことの是非は本題ではないここでは問わない。
要は山本太郎氏はそれにどのように向かっていたかということが大事なことなのだ。
山本太郎氏の発言や行動によって、どれだけの被災者の方が「自主避難」をされる決意をされたか、その数はおそらく500人を下らないだろう、いやもっとかもしれない。私の知人が「自主避難」の支援をいるので、こういったことを知り得たのだが、そんなことは本人はもちろん言わないし、誰もそれを伝えないだろう。しかし、このことは紛れもない事実なのだ。
山本太郎氏は口先だけでなく、本当に子供を守ることを真剣に行動によって示してきたのだ。
私はこの一点のみでも山本太郎氏を最大支持する。

最後に、よくもまぁ、杉並区を選んでくれたものだ。
言わずと知れた石原伸晃氏の牙城、前回選挙では14万以上の票を獲得している。
もっと、当選しやすいところはいくらでもあったはずだ。
それでも、彼がこの地を選んだのは、
1. 杉並区が反核市民運動発祥の地であること
2. 石原ファミリーが国政や都政にとっての象徴的な存在であること
だろうと想像される、ここで、1.の機運が2.を打ち破ることができれば、国政だけでなく、都政も変えることができる。

もし、国会議員に当選するならば、自分一人が当選するということだけでなく、「脱原発」の流れを作り出すきっかけをつくること、そう彼は考えたに違いない。
劇場型政治の今にあっては、素晴しいカウンターではないか。
それは同時に、わたしたちにも問いかけていることを示すものだ。

「さあ、どうするみんな?」

単に議員という職業にありつこうという政治屋と違い、本気で国民とともに政治を動かそうとしている。
そんなふうに私には思えるのだ。
いや、しかし、こんな風に他の地区の候補者を個人的に応援するなんて。。
それでも、この話題が盛り上がり、明日の投票率が上がり、国民一人一人が「お任せ民主主義」から脱却できることを願ってやまない。


2012/12/07

政治参加とは --臆せずに話す--


先週、昔の仕事仲間から電話があり、どこの政党に投票したらいいのかわからないと相談を受けた。彼は真面目に自分の一票を大切にしたいと考えていて、政策課題として何を挙げているかを重要視したいと。でも正しい情報がどこにあるかわからないということだった。
そこで私は都知事選も含めて、自分の推している候補者と政党を挙げて、その理由を整理してお話した。政策課題の優先順位についてもお話した。
すごく納得してもらった(気がする)
彼みたいに素直にわからないから教えてくださいという人は少ないだろうし、わからないときに誰に聞いたらいいのか、そもそお聞いていいのかわからないというのが多くの人の実情なのではないだろうか。

昨日は親族に近い人に会って、こんな話を聞いた。
「なんだか色んな政党があってよくわからない、私はなんとなく自民党にしちゃうんだけど。。。」
私はこう切り返した。
「私もかつては自民党を支持していましたけど。。もう後戻りはないと思う」

自分が正しいと思っていることを臆せずに話すことが基本だと思う。
そうすれば、そこから政治参加が始まる。
民主主義においては必須の過程だと私は思っている。

かつての保守対革新という単純な政党対立ではないので違いがなかなかわからない。
でも、自民党政治がダメだったから、前回選挙で民主党が政権を取った。この国民の選択の意味は大きく、そして間違いではなかったと思う。しかし、民主党政権はそうは簡単に自民党政権時代につくられた権力構造は変えきれなかったし、次々とその大きな矛盾点に飲み込まれていった。マニュフェストという言葉が空虚な言葉となった。

小政党が乱立しているようにも見える。
しかし、大きな流れでみれば、今までは政党政治であって政党政治とは言えない体制が永く続いていたのだ。
そこで意思ある政治家は新しく党を立ち上げて、ある意味の「理想」を国民に問うているとも言える。時代が急激に変わりつつあるわけだから、政治体制も変わっていくのは当然だとも言える。
けれども、今まで大きな権力の側にあった方は、それを手放したくない。様々な手段を使って「変える」ことにブレーキをかける。だから、政治とは常に「理想」が「現実」や「既存権力」に引き戻されるものなのだ。
だとすれば、困難であることはわかっても、考え得る理想を掲げることは政治の基本ではないのだろうか。
国民は選挙で騙されるのかもしれないが、同時に少しでも現状を変えて欲しいと願い投票することが大切なのではないか。

さて、古き骸となりつつある政党という袋に未だに身を置いて
「私はこの党を愛しているから、今の党の政策と自分の考えは違うが、党に留まって変えたい」というようなことをおっしゃる候補者さんは、選挙に向かう国民のことを本当に考えているのか?
10年も前ならそれは理解し得る。しかし、今はどうなのだ。わかりづらい振る舞いが、投票者の選択を迷わせることになっていないか? 政治家の姿としてどうなのか。今回はそれも問われているように思える。

さらには、大手マスコミにおいても目に余る誘導的な報道が行われる。
はっきり言おう、国民の多くは愛想が尽きている。
選択枝が提示されれば、そちらに大きく傾く。要は時間の問題なのだ。気付く国民が増えれば増えるほど、偽りの情報はいつかは暴かれる。要らないものが自然と捨てられる。

国民がきちんと政治に向かい、投票という権利を有効に使う、すべてはこれが前提である。
その意味では今回の選挙は従来からの大きな転機になりそうであることは間違いない。
今は国民の集合意識が「吉」を選択することを願う。
一人でも多くの人が「なんとなく」ではない投票を行えばそれは変わる。
そうなること信じたい。
だから、微力であっても私は話をすることにしている。短い期間だが自分の身の回りと話すだけでそれは変わり得る。