2013/11/26

それじゃ秘密は守れないよ--その1--

特定秘密保護法が日本国民にとって、どんなに危険かは言い尽くされてきた気がする。

それでも「特定秘密保護法は可決すべきだ」と思っている人たちとってはそれは、「左翼的な考え」とか「平和ぼけ」とか「国防を真剣に考えていない」
ということになるのだろう。

よろしい、そういう考えもあるよね。
確かに国防は必要だ。そのためには機密は守らなければならない。そのとおりだと思う。
日本はスパイ天国だというではないか、確かにそれは事実だろうからスパイ君には諦めて帰ってもらうようにしなければならないよね。


実は日曜日、私は仲間と共に「特定秘密保護法反対」のフラッシュモブってやつに参加していた。

文章とは関係ありません(笑)

そして、夜はそのまま仲間たちと渋谷のちょっと奥まった魚料理屋に飲みにいったのだった。
すると、目敏いCHI姉さんが例の裏切り者党首を見つけた。
みんなで「特定秘密保護法はんたーい」と言ってやった。たぶんそそくさといなくなった。

すると、私たちと大テーブルを相席していた二人の若者たちが「ニヤニヤ」と。

「お兄さんたち、うるさくしてごめんね、でも、特定秘密保護法には反対だよね〜」
CHI姉さん。
「いえ、残念ながら、僕ら賛成なんです」
「えっ!」

「えー、じゃぁ、お兄さんたち戦争になったらいくの?」
「行きます」きっぱり
「あっ、そう、そこまで言うならねぇ、いいや、色んな考えがあるってことで、これ以上突っ込まない」
「そうっすね」

といった感じ。

彼らはすごく礼儀正しくて、とても○特会の奴らみたいな感じではなかった。
そう、真面目に日本のことを心配している若者もいるんだよね。

でも、そういう本気で日本のことを心配するような彼らをよそに、この「秘密保護法」では、全く国防や外交のための重要な機密は守れない。
何故か?


まず、
外国人のスパイをこの法律では裁くことができない。
この法は日本国民が対象だから。

これで「スパイ天国でないようにしよう」っていうのが基本的にウソだってことがわかるよね、小学生でも。
秘密漏洩に関して、関係者に対して厳罰を処すってこと、つまり、罰の強化で漏洩を防ごうっていうのが、この法案の骨子なのに、罰を受けるのが、外国人スパイではないってこと。
まぁ、スパイって秘密が漏洩したことさえ気づかれないわけですけど。

最近ちょっと、ぶいぶい言っているらしいスタンフォード大学の日本人教授の言葉だとかを鵜呑みにしていた貴方、ちょっとは「あれっ?」って思ってくれたかな。

でも、外国のスパイの手に渡る前に情報を持っているのは、日本人だから、そこから出さないようにすればいいと考えるか。
それはある意味正しいけれど、ある意味間違い。そして、この法はそれに対して何らの関与も影響もない。

というのは、この法案は情報漏洩は何故起こるのかという、情報管理の要諦が全く意識されていないからなのだ。
情報漏洩は罰則強化だけでは防ぐことができない。
こんなことは、情報管理の常識なのであり、こんな法律をつくる前にやらなければならないことがたくさんある。
情報管理について言えば、企業であっても国であっても基本は同じ。
しかし、企業はまだ情報管理について従業員教育を徹底したりすることができるのだが、国とか地方自治体、官庁となると、従業員教育というようなことが大変やりずらくなる。

それは企業がその営利を目的とした組織の成り立ちに沿ったポリシーをつくれるのに対して、官庁などは組織保全は考えるものの、目的が何であるのかがわかりずらくなる。それは、即ち「何を守るのか?」ということが不明瞭だということなのだ。

さあ、ヒントはたくさん出したから、私が次を書く前に、自分で考えてみてくれ。

2013/07/13

三宅洋平 ---ボブ・マリーを超えて--- (2) Gypsy Song

原発事故、それは遂に開いてしまったパンドラの箱。
事故の後には、その箱に一杯に詰まっていた嘘や欺瞞が一挙に吹き出した。
3号機が黒煙を吐いて爆発したとき、私の友人の何人かは関西方面に車で逃げた。そのことを後から聞いた私は、その情報力と行動の早さに驚きはしたものの、何も責める気にはならなかった。彼にはまだ小さな子供もいる。子を持つ親ならそこまで考えても当然だろう。

しかし、世の多くは、被曝を恐れて逃げる”被害者”が過剰反応であるかのような、まるであべこべな過剰反応を示した。「立場上、逃げれない者を見捨てるのか?」「不安を煽るな」「日常性を大切にしろ」と。
何故だろう?放射性物質を含んだプルームは間違いなく関東一円以上に広がったわけであるし、それは等しく皆の回りに降ったのだ。そうした被害を受けた側として同じ立場の人間同士が危険性に対する解釈の違い、立場の違いで分断されていった。
そして、ただ自分や自分の子供たちの命を守りたいという行動には、一切の支援もなく、残った人たちにさえ、ろくな保証もできない、私たちの国。
2011年に私たちが実感したのは、そうしたパンドラの箱からの黒煙の正体だった。

三宅洋平もその分断の中にいた。
”震災からの傷。反原を訴えていた頃から理解されずに苦しみ、事が起きた直後からも内部被曝の危険性を訴えて理解されずに苦しみ、不安を煽るなデマを流すなと叩かれ、かねてからイメージしていた沖縄に安住の地をみつけた事を理解されずに「逃げやがった」「裏切り者」と揶揄されて苦しみ、住み慣れた街を突然予期せずに離れたことに戸惑い、何より関東に残った仲間や家族と心が繋がれなくなった事に苦しみ、正直俺もPeace-Kもボロボロだった。いや、みんなボロボロだったんだな。借りたギターで飛び入りしたライブで『意識の大陸』を唄う前に、Peace-Kと目を合わせ、「あ、一緒に音楽やるの、久しぶりだね」と呟いた。超然と大きなバイブスを発する、絶対的守護神のリズムマン、Peace-Kがいつもよりずっと小さくみえた。それでも、俺たちは此処で、この瞬間から、ゆっくりと新しい時代に向けて、また音を鳴らし始めたんだと、一条の小さな喜びの光が、差し込んだ気がした。”(三宅日記より )

参議院選挙の初日、吉祥寺の選挙フェスのときに三宅洋平はこう言っていた。
「逃げるという言葉が禁句だった時期があります。そのときに俺は、福島や宮城や東京や群馬や埼玉の仲間たちに自分の気持ちを伝えるため沖縄の台所でつくった歌です。」

Gypsy Song


2012.5.30 (仮)ALBATRUS / ALBATRUS / 1st album

”2011年11月18日録音。東日本大震災と、原発事故から生まれた、「それ以降」の­社会。そこで、多くの現実と向き合わされてる僕らは、これまでにないほど哲学し、多く­の価値観に気づかされてきた。 それはバンド内とて同じことで、そうしたメンバーたちの感情の最大公約数を曲に求めた­中で、どの距離に居る人にとってもポジティブで強い響きを持つ唄を書きたかった。 珍しく5テイク目までかかったと記憶するが、何かが舞い降りて「息が合った」OKテイ­クをミキシングルームで確認する時、「ただ音楽を鳴らす」のとは訳の違った2011年­の永くて短い録音の完成を知る。そっと、涙する者も居た。 製作期間を含めても「のべ2週間」ほどの限られた「集合時間」、の中で作り上げられた­渾身の1stアルバム。 その最後を飾るに相応しいソウルフルなテイクが録れた。 元晴のソプラノサックスが効いている。”(仮)ALBATRUS - ジプシーソング (Offical Video) より

原発事故後、始めてリリースされた (仮)ALBATRUS 1st アルバムは「それ以降」の社会を駆け抜けるための新しいリズムと優しさに溢れていた。
そして、この曲は沖縄での時間の経過とともに、もっと意味の深いものになっていったのだと思う。三宅洋平がライブでこの曲を歌うとき、ときおり枕歌のようにイントロに歌うのが、「平和の琉歌」(桑田佳祐作曲作詞)である。

この国が平和だと
誰が決めたの?
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下
夢も見ました
民を見捨てた戦争の果てに

蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
いつか咲かせる愛の花
・・・

”去る10月に、南部は佐敷(沖縄県・南城市)の毛遊び(もーあしび)に呼ばれて出演した時、出演を依頼してくれた地元の青年マーシー君が佐敷の浜を指差して「洋平さん、あすこの浜で13万8千人が死んだんですよ」。本土返還後、日本のナショナリズムに対抗するために根強く発展していった琉球独自の民謡と芸能文化の象徴である毛遊びに、ナイチャーの僕を出演させてくれたというのは、かなり奇跡みたいな話であり、その感謝の念は生涯消えないと思う。
また、本部の市場でみせてもらった戦争写真集で見た、沖縄戦直後の那覇の街並みが、文字通り巨大なクレーターのようにえぐれて、一切、全くなにも残っていなかった。あの景色も、目に焼き付いては離れない。日本人のどれほどが、広島、長崎を凌駕するこの歴史を認識しているだろうか。
(WIKI:沖縄戦より抜粋)陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地のひとつであり、使用された銃砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ。[4]そのため、不発弾処理は陸上自衛隊第101不発弾処理隊と海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人[5]、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。
南部、中部、北部、逃げ場の無い沖縄の地は、日本のナショナリズムの押しつけのために、米軍の嵐のような艦砲射撃と上陸作戦によって完膚なきまでに焼き尽くされて、沖縄民間人の死者数はいまだにハッキリしないのです。
基地問題、沖縄の歴史。縁あって沖縄へ移住した僕は、日本国内で実に軽視されているこの問題とも、向き合う義務を感じます。
ひとつの文明周期が終わりを告げて、僕らは意識高く変化の道を歩み始めました。民を忘れた経済と政治の論理に、悲劇が繰り返されるのを停められるのは、他ならぬ僕ら民の力です。文化の力です。”(三宅日記より)


それは嘉手納の基地だったんです、武器弾薬庫、放射能から逃げてきたら、基地問題の最前線に飛び出してしまった。そのとき、日本が抱える問題っていうのものすごく感じたんですね。沖縄住んでいる人たちの生の声の中で揉まれて色々気づくことがいっぱいあったんです。原発立地と起きている事が一緒だと。。
でも、ホントにそれを押し進めている人はそこにはいないんです。。。(参院選 7/5 新橋駅前演説にて)




Gypsy Song はまさに彷徨いながら、ふと顔をあげて見上げたそのときに、浮かんできたようなラブソング。それはまた、何度も振り返りながら、その意味をさらに深め広げていっている。


海わたり ゆけ
海わたり ゆけ今

大地を休ませて
思いも寄らない場所まで Yay

どこかココロの奥の方で
夢見てた世界へ

白浜の砂 踏みしめる
君のその裸足で Yay

一夜に落ちてる
貝を拾って その指で
月夜に満ちてる
愛を見つけて その胸で

開いた感性の
終わりなき旅路のはじまりだよ

旅に出る時だ
旅に出る時がきた

世代を乗り越えて
未来に帰り着くまで Yay


いつか刻の向こう側で
開いたままのぼくらで
野生の大地を取り戻す
ここに種を撒こう

木漏れ日に溢れる
風を信じて この思い
星屑に捧げる時と
変わらぬ この思い

開いた感性の終わりなき
旅路のはじまりだよ

move japanese all over the world!
remove yourself from mighty control!

run! take your daughter!
run! take your son!

this is a gypsy song

go faraway!
go faraway
from the radiation!

this is a gypsy song

go faraway!
go faraway
to keep the generation!

this is a gypsy song

go faraway!
go faraway
from the radiation!

this is a gypsy song

go faraway!
go faraway
keep the motivation!

to be yourself!

yes, be yourself! ah
yes, be yourself! ah
yes, be yourself! ah

be yourself!
be yourself!
be yourself!

海わたり ゆけ
海わたり ゆけ今

旅に出る時だ
旅に出る時がきた

世代を乗り越えて
未来に帰り着くまで Yay


2013/07/10

三宅洋平 ---ボブ・マリーを超えて--- (1) Redemption song

この参院選に全国比例代表として緑の党から立候補したミュージシャン、三宅洋平。
今や、皆それぞれが検索して情報を得たり動画を見たりすれば、彼が何を思い何を目指しているかはわかるだろう。
何よりも彼自身の言葉、音楽を聞くこと、解説は不要だ。そこで夫々が感じることより他に大事なことはないと思う。

だが、敢えてここに「ボブ・マーリーを超えて」という副題を添えたのは、彼自身が発した言葉と音楽を頼りに私自身が感じていることを共有したいからだ。
ボブ・マーリーの歌と世界観に共感しつつも、終ぞそれが単なる憧れとなってしまった我らの世代にとって、それを「超える」ということ、それはその先の世界観を現実化していくということだ。
既に三宅洋平はボブ・マリーを超えた。私はそう感じ、そう信じている。
一人の男として、そしてミュージシャンとしても。
そしてさらに今、私たちにも「一歩を踏み出そうぜ」と、三宅洋平は言っている。



「魂の奴隷を解放しろ!!」

2012年12月15日 山本太郎 高円寺駅前街頭演説にて

始めて三宅洋平の名を知ったのは昨年12月の衆議院選挙、杉並区から立候補した山本太郎の高円寺での演説のときだった。
私は杉並区民ではないが、どうしても山本太郎には当選して欲しかった。
友人の多くも山本太郎を支えていた。市民が支える選挙活動、それはまさにこのときに始まったのだった。
高円寺駅前のステージで歌う三宅洋平は山本太郎とともに人々の心を捉えていた。今までに見た事もない選挙の姿。
山本太郎は「本当のこと」を生の声で伝えようと必死だった。
三宅洋平は応援という形であったが、明らかにそれを超えて自分の今の心情を歌に込めて伝えようとしていた。そして、このとき三宅洋平はぼそっと言った。
「来年の参議院選挙には俺もでようと思っているし、、、」
このとき、すでに三宅洋平は相当のビジョンと決意を持っていたということは後に知った。だが、私にとっては始めて知るようなミュージシャンがそれを本気で言っていると理解することはできなかった。
そして、静かにギターを引き始め、一曲軽く弾き語らせてもらいます、と歌い始めたのが、ボブ・マーリーの曲、"Redemption song" (自由の歌)だった。
恐らく、20年以上は聞いていなかったこの曲。懐かしさと共に、今、この若いミュージシャンが歌うということに、この曲自身が持つ力強さや不滅性を感じた。
次第に歌に熱がこもりはじめ、サビを自分の言葉に置換えて語り歌う、その言葉に思いっきり頭を殴られた。

Have no fear for atomic energy
(俺たちは原子力なんか恐れねぇし、原子力ヤクザだって恐れねぇよ)
Cause none of them can stop the time
(やつらにだって時代は止められやしないよ)

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Redemption song

Songs and lyrics by Bob Marley 
( )内は三宅洋平が歌った言葉
Old pirates yes they rob I
Sold I to the merchant ships
Minutes after they took I
From the bottomless pit
But my hand was made strong
By the hand of the almighty
We forward in this generation
Triumphantly
All I ever had, is songs of freedom
Won't you help to sing, these songs of freedom
Cause all I ever had, redemption songs
Redemption songs

Emancipate yourselves from mental slavery
None but ourselves can free our minds
Have no fear for atomic energy
Cause none of them can stop the time
How long shall they kill our prophets
While we stand aside and look
Some say it's just a part of

We've got to fulfill the book

Won't you help to sing, these songs of freedom
Cause all I ever had, redemption songs
Redemption songs, redemption songs

Emancipate yourselves from mental slavery
None but oursekves can free our minds
(心の奴隷制度から自分を解放できるのは自分の心だけだぜ)
Have no fear for atomic energy
(俺たちは原子力なんか恐れねぇし、原子力ヤクザだって恐れねぇよ)
Cause none of them can stop the time
(やつらにだって時代は止められやしないよ)
How long shall they kill our prophets
(一体やつらは何時まで俺たちの仲間を殺し続けるんだい)
While we stand aside and look
(俺たちが対岸に突っ立って指咥えて黙って見ている間にさ)
Yes some say it's just a part of it
(そんなのただのちょっとした一部の話じゃないって、冗談じゃない)
We've got to fulfill the book
(歴史の本の残りはね、俺たちが埋めていくんだよ!)

Won't you help to sing,
(一緒に歌ってくれないか?手伝ってくれないか?)
these songs of freedom
Cause all I ever had, redemption songs
All I ever had, redemption songs
These songs of freedom,
(いまここで、自由の歌、自由の歌)
songs of freedom...

-----------------------------------------------------------------------------------
だがそれは、今となってはほんの序章に過ぎなかったのだ。

山本太郎は大健闘したが、議員となるまでの票数を得ることはできなかった。それどころか、この衆議院選では投票率が落ち、脱原発勢力の票の多くは死に票となった。日本の民主主義のむごたらしい敗北。多くの人たちがこの状況について落胆し、その後の政治状況の厳しさを覚悟せざるを得ない状況となってしまった。
だが、山本太郎も三宅洋平も、そんなところで止まっているような男ではもちろんなかった。

私の頭の中では、三宅洋平が歌ってくれた、この"Redemption song"が何度となく繰り返されるようになっていた。

Old pirates yes they rob I
Sold I to the merchant ships
Minutes after they took I
From the bottomless pit
But my hand was made strong
By the hand of the almighty
We forward in this generation
Triumphantly

昔、海賊どもが、俺を連れ去り、商船に売っぱらった。
そして、底なしの絶望の穴にいた俺をやつらは捕らえた。
でも俺の手は全能者によって頑丈につくられていたのだ。
俺たちはこのことを誇らしく世代に伝えていくさ。。。


続く

2013/04/28

「森の蘇り+古民家再生+αプロジェクト(仮)」を始めようかな?


古いものに価値を見いだすというより、「モノを大切に使う、もったいないと思う」ことなのだ。
建築士さんの話を聞くうちに、何故、手間や時間のかかることを続けてこられたのかがわかったような気がした。
「和風の照明器具」
文様はプリントでも張付けでもなく、一枚板を彫ってつくられていた
こんな手の込んだ細工をちょっと昔にはやっていたんだよね日本人ってすごい。


結婚したての頃、愛知県西尾市にある稲垣家の本家に始めて行った。
江戸時代からの庄屋であった稲垣家の本家は両手で抱えるほどの太い大黒柱の立つ、築200年を超える家だった。
その家も維持することができなくなり、今は土地を子割りにした分譲住宅地となってしまった。
それでも本家は、できる限りその家を維持してきたのだった。

私の家は祖父からの材木商だった。祖父は秩父の山を自分の目で見、その山からどれだけの材木を得ることができるかを測る「山師」として、秩父の木材を買い付け、熊谷市でそれを売っていた。
祖父、多田秀太郎は山から木を見てきた人であったので、そこから得た材木の性質をよく知り、家の部材として、どこにどの材料を使ったらよいかを大工さんたちに教えることができた。この「適材適所」を知らせることができたことで「丸秀木材」の木材を使った家は立て付けが狂わない家となり、定評を得ていたという。
しかし、私が子供の頃の高度成長期には、すでに外材や新建材が多くを占めるようになっていた。
大工の棟梁ではなく、住宅メーカーが建てたときだけ見た目が小ぎれいなだけの安価な家を供給する時代となっていた。
そして、石油ショック以降、状況はどんどんと悪化し、父の時代「丸秀木材」は倒産してなくなった。私が高校2年の頃だ。
父の性格、手腕も問題だったかもしれない。しかし、熊谷市中の材木商はほとんどなくなった。地元に根付いた地場産業は終わっていった。

大学卒業後、飛騨で家具作りを行っているO社に行ったのも、こうした私の出自があったからであり、今の既成産業で働くという事に何らの興味も持てなかったためだ。しかし、代表と反りが合わなかったことや、自分自身がまだまだ未熟であったことで半年も立たずにそこを止め、一旦大学に戻った。
ある意味、自分で「新卒」というチャンスを棒に振った私は、何がしたいかではなく、何ができそうかという選択枝を選ぶ人生のスタートを歩み始めた。

インターネットの時代、30代後半にも関わらず、この新しい産業への可能性を信じてITエンジニアとなった。
その選択は間違っていなかったと思う。今でも飯のタネになっているのはこの仕事だ。
自然環境への関心とが結びついていたので、個人が情報発信できるという仕事は色んな可能性を広げてきた。
しかし、それだけでは駄目なのだということは、311の事故後、特に日々実感していることだ。
「福島の原発事故」は、経済成長ということも含めて、すべてのベールを剥がしてくれたのだと思う。
私の生きている時代というものが、一体どういう時代で、どういう時代が今後訪れるべきなのか?
そういった一切の気づきを含めて、今、この時が私にとって人生最大の転機になってきていることは間違いなさそうだ。

再び、多くの人が地域に根ざした生き方を作り上げないといけない。
グローバリズムやお金だけでは、人々は幸せになることはできない。
限られた資源を有効に使うためには、時間と手間を惜しんではいけない。いや、時間と手間を楽しむ生活ができる生活こそが豊かな生活なのだ。
自分でつくったり、治したりしながら、それを楽しむこと。
それはそれほどたいそうなことではないはずだ。ただ忘れてしまっているだけ。
使い捨てられることが前提の新しいものに買い替えて、古いものをポイポイと使い捨てる生活。
そういう愛着のないものに囲まれた、愛着のない生活は、結局、目の前にスマートな気がするものがあるだけで、解決できないものを見えないようにしているだけ。

だから、今こうして、それを修正していくためのチャンスが目の前に現れてきたのではないかな。
少しずつでもいいから、同じようなことを考えられる仲間を集めて、ボツボツやっていければいいなと考えている。
ワークショップは、近くの森の間伐や、今やり始めている風車とか、再生可能エネルギーのこと、自分の身体を見直すヨガや、食べ物のこと(畑もあるからね)、生活のあり方を見直すものなら、なんでもありで、みんなでワイワイやればいい。
大それた事ではないよ、きっと。