2007/09/04

鈴木理策 熊野 雪 桜

「WHITE」と名づけられた鈴木理策の最新作を見た。

 白い雪景色がこれほどまでに表情が豊かで、かつ透明感を持っているとは。

 これは一体写真なのか。窓から見えるその白い世界は、まるで自分が見ているような錯覚さえ起こる。

 作家は、限りなく自己の存在を無にして、自分の「気配」を消し、その場の持つ何ものに対して、加えることも引くこともなく、ありのままを写した。
 研ぎ澄まされ、磨きぬかれたレンズとセンサーを持つもののみが行える行為だ。

 一瞬、自分の目で見ているような錯覚。しかしそれは、作家が与えてくれた透明な視点なのだ。それを知った途端に作家に対して「ありがとう」と言いたくなる。

鈴木理策 熊野 雪 桜

■会 期:9月1日(土)→10月21日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:東京都写真美術館 2階展示室 MAP
■料 金:一般 700(560)円/学生 600(480)円/中高生・65歳以上 500(400)円

2007/08/26

消された記録と記録されない事実

この3~4ヶ月間に起こったこと列挙してみる。

・年金記録問題
・農林水産省所管の独立行政法人・緑資源機構談合問題
・松岡農林水産大臣(当時)、首吊り自殺
・久間大臣発言問題
・赤木(前)農林水産大臣事務所費問題
・食肉偽装問題
・コムスン介護報酬不正請求問題
・中越沖地震
・柏崎原発事故
・参院選挙自民大敗
・赤木(前)農林水産大臣辞任
・猛暑と柏崎原発事故に伴う電力不足

 論えばきりがないないほど、国民の健康や安全を守るはずの行政機関や企業に多くの不祥事が発生した。加えて自然災害や気象の変動への対策もなおざりにされている現実が浮かび上がる。

だが、これらの問題が発生する原因が除去されたとは到底思えない。


 巷では、「アベシンゾー内閣がどれだけ持つか」とか、「防衛庁人事抗争」とか、「最早どーでもいい」話題に切り替わってしまっている。この国では、「禊」(みそぎ)という便利な言葉がある。「選挙は禊である」という、得体の知れないレトリックに国民はいつまで欺かれ続けなければいけないのか。

【羊頭狗肉】という言葉がある。
「羊の頭を掲げて、狗(いぬ)の肉を売る」というおぞましい言葉なのだが、
「【羊頭狗肉】がばれたら別の羊の頭が掲げられるという【首の挿げ替え】が常に行われているだけ」という【無限羊頭狗肉状態】が今の我が国だろう。

 当に羊頭狗肉な事件が上記の中にもあるが、つまりは情報の捏造という「犯罪」である。
 情報の捏造は以下の手順で行われる。

  1. 後日問題となるような事実は極力記録させない。あるいは、極秘事項として日の目を見せない。
  2. 問題が発覚したときには、まず手がかりになりそうな事実を抹消する。
  3. 「事実無根」を繰り返す。また、「差し障りのない虚言」の吹聴を繰り返すことで情報錯乱を発生させる。
  4. 話題を変え、忘却を待ち、反証を起こさせないような既成事実を擁立し、新たな宣伝広告を行う。

【無限羊頭狗肉状態】を可能ならしめるのは 1.のプロセスである。
つまりは事実を極力残さないというのが情報捏造の土壌であるわけだ。
また、2.3.4.のプロセスはもちろん組織的に行われる。第三者の介入が排除されることがポイントとなる。これには懐柔そして圧力がものを言う。

 私のようなシステム屋稼業から見れば、特に重要記録を残さないということはあり得ない「真逆」の世界である。
 我々の世界では、通信機器やサーバシステムといった基盤の動作や、アプリケーションプログラムの動作、ユーザや管理者のアクセスの状況までがログとして記録されるのが当たり前である。システムの正常動作や障害などの記録が行われ、何らかの障害や不具合が発生した場合にはログを調査することで事実関係を特定する。
 正常に動作していることを証明するのも、不具合を発見し、システムの改善を行うのもログによって記録された事実による。

 今、一般的な企業では【内部統制】(internal control)【コンプライアンス】(compliance=法令遵守)という言葉がしきりに叫ばれている。これは、企業活動による社会的不祥事が頻発したためだというが、元々が輸入品の言葉だ。方や四文字熟語、方やカタカナ英語であるところが、如何にもと言ったところだが。
 平成18年(2006年)6月7日、金融商品取引法が成立したことによって、来年、平成20年(2008年)4月1日以降にすべての上場企業にJ-SOX法(日本版SOX法)が適用されることになる。これにともなって、内部統制報告書を作成したり、内部統制監査を受けることに「対応」することが求められている。
 内部統制整備を推し進めようとしているのは「金融庁」「経済産業省」だ。
 (※このJ-SOXも米国SOX法(
Sarbanes‐Oxley act)に紐つけたものだ。)

 ITシステムにとっても今まで以上に、監査に耐え得る仕組みづくりが求められている。ログという証跡の管理も、その一つである。今までのようにシステム管理者がログを管理するのでは不正が起こり得るということで、ログの改竄防止や第三者による管理が必要ということになってきている。
 少々窮屈なことではあるが、結構なことだと思う。私たちは求められるシステムの管理について「無茶かな」と思えることはしばしばある。それでも、こういった対策が必要だと思うのは、「内部統制」が以下の状態から企業体を守るという理由によって必要不可欠であることが自明であるからだ。

  • 業務の非効率化
  • 不祥事の温床
  • 不明瞭な財務データ

 このような状態が長く続けば企業体は存続し得ない。不祥事が発覚すれば社会から糾弾されるし、発覚しなくとも企業体が真っ当な成長を続けることが不可能になり淘汰されることになっている。

 簡単に言えば、内部統制とは「会社が私利私欲に走らないために、健全な会社経営をしていくための仕組み・手法」のことなのだ。


 さて、「社会的不祥事の頻発した」ことが内部統制を整備しなければならないきっかけということだが、それについては不祥事の中身や関係者をきちんと把握する必要があるだろう。
 つまり、
  • この3~4ヶ月に止まらず、「不祥事」は一般企業にのみ発生しているのだろうか? 
  • 或いは一般企業において発覚した不祥事について監督/管轄官庁は関わっていなかったのか?

 一般企業において不祥事が発生した場合、責任者に対する処分は明らかに行われるし、内容によっては企業自体が存続されないことになる。だがこれとは全く対照的に監督/管轄官庁の不祥事に対する処分は甘い。組織的な階層が上になればなるほどその甘さが目に余ると思うのは私だけだろうか。
棒給の返納はしないのかという問いに対して「そんなものはもうない」と言いのけた元総理大臣に対しての評価は「かっこいい」でよいのだろうか。
民間組織の身分に比べ、公務員の身分はそれほど保証されなければならないものなのか。そして、彼らは失敗をしない「カミ」なのか。


 日本株式会社は現在、慢性的な赤字状態であり、現在でもその赤字は増え続けている。それについて責任を取るわけでもなく、改善されるでもなく、「ツケ」は増税によって賄われようとしており、さらに解消されない「ツケ」は次世代に先送りされようとしている。この「ツケ」とはもちろん「借金」だけでなく、「資源」や「環境」も含まれる。

 日本株式会社はすべての国内企業を監督/管轄している。この監督/管轄者にモノ申すことは、その管轄される業界の中ではご法度となっている。それは企業および組織人として抹殺されることを意味するからだ。それでは、管轄/被管轄の関係でない場合はどうなのか。「門外漢」と言われるだけだ。あるいは、別のあらぬ方向から「危険なヤツ」として排除される。
 情報公開はどうだ。収入印紙代を支払い、情報公開申請を行っても「悪用される恐れがあるので公開できません」などという理由で事実をはぐらかされた知人もいる。(これは最近不祥事の続く農林水産省での事例だ) それは「情報公開制度」なのだろうか。

日本株式会社にも「内部統制」の整備を是非求めたい。もちろん期限は来年4月までだ。関連会社である特殊法人/公益法人もその対象であることは言うに及ばない。

2007/05/05

造られた記憶

”「ブレードランナー」まであとわずか”より続く。



再び「ブレードランナー」から
デッカードが、恋人となるレイチェルに、自分がレプリカント(アンドロイド)であることを気がつかせてしまうシーン



Rachael: You think I'm a replicant, don't you?
あなたは私がレプリカントだと思っているのでしょう?
Rachael: [Pulls out photograph] Look. It's me with my mother.
(写真を見せながら)見て、母と一緒の私よ。
Deckard: Yeah?
ああ。
Deckard: Remember when you were six? You and your brother snuck into an empty building through a basement window ... you were gonna play doctor? He showed you his, and when it got to be your turn you chickened and ran. Remember that?
You ever tell anybody that? Your mother? Tyrell? Anybody, huh?
6歳のときのことを憶えているか?君と君の弟は空きビルに窓枠から入り、君たちはお医者さんごっこをしようとした。弟は先に彼のモノを見せた、君の番となり君は怖くなって逃げた。憶えているかい?
君は誰かにそのことを話したか?母親に?タイレルに?誰かに?え?
You remember the spider that lived in a bush outside your window? Orange body, green legs? Watched her build a web all summer. Then one day there was a big egg in it. The egg hatched...
君は窓の外の藪にいた蜘蛛を憶えているか?オレンジ色の身体、緑色の脚? 蜘蛛の巣を夏中見ていた。ある日、大きな卵がそこにあり、卵が孵化し、
Rachael: The egg hatched...
卵が孵化して、
Deckard: And?
そして?
Rachael: ...and a hundred baby spiders came out. And they ate her.
たくさんの赤ん坊の蜘蛛が出てきて、そして、彼らは母蜘蛛を食べた。
Deckard: Implants! Those aren't your memories. They're somebody else's. They're Tyrell's niece's.
移植だよ!それらは君の記憶じゃない。誰かの。それはタイレルの姪の記憶さ。
Deckard: Okay. Bad joke. I made a bad joke. You're not a replicant. Go home. Okay?
いや、冗談さ。悪い冗談を言ったのさ。君はレプリカントじゃない。家に帰りな、いいね。
Deckard: No really, I'm sorry. Go home.
うそだよ、ごめん。家に帰りな。


レイチャルはタイレル博士が人間以上のアンドロイドを作ろうとした試作品だ。タイレル博士はレイチェルの不安定な感情を落ち着かせるために、「過去」を与えたのだという。
もし、本物の人間の話だとしたら、次のようになるのだろう。
「レイチェルは不幸にも孤児となって親戚に預けられ、あたかもその家の子供であるように育てられた。そして、ある日、育ての親が自分の親でないことを知る。戸籍を見てしまったのだ...」よくあるアイデンティティ喪失のシーンだ。

しかし「移植」という強烈なプロットによって、ここでは「感情と綾をなす人間の記憶」がクローズアップされ、それらが「何者かによって創られたもの」である可能性が示唆される。
たとえ造られた記憶であっても、己が信じてきた記憶を覆すことには痛みが伴う。記憶はアイデンティティそのものだからである。そして、遠い記憶は己にとって”甘美な”ものとなるのが常だ。

造られる可能性があるのは個人の記憶よりも共同体の方が圧倒的に多い。古今東西の神話がその国において神話たりえるのは、神話という物語を通して、共通の記憶ならびに感情が生まれるからだとも言える。そして「感情と綾をなす人間の記憶」であるからこそ、それは思考にさえも影響を与える。
さらに故意にそのような感情に刺激を与えることで、狂信的な国家への忠誠心を培えることは、この約半世紀の歴史が示すとおりである。誤解のないように言うが、それは一国の話ではなく、過去の話ばかりではない。戦争とは、感情を煽ることで共同体意識を操る強烈なプロバガンダを用いて遂行されることが殆どだ。

最近やたらと「感情的になりがちな」情報が目にあまる。冷静に事実を把握せず、他者の観点を省みずに一直線に結論へと走る傾向は、対抗軸の無い政治状況にも影響していると思われる。大本営発表と「わかりやすく単純な」耳心地のよい情報には気をつけるべきだろう。ワンフレーズで事足りる事実など殆ど無いはずなのだ。

2007/05/03

「ブレードランナー」まであとわずか

 フィリップ.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" を映画化した「ブレードランナー」 "Blade Runner"が発表されて、1/4世紀が経つ。
 だが、映画のクライマックスの台詞とそのイメージは、私の中に強烈に記憶されている。このネクサス6型アンドロイド「レプリカント」ロイ・バティの最後はインターネットの出現とともに、そのアーカイブの中に取り込まれた。20世紀の歴史に刻まれる「1コマ」となるかもしれない。


 "I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain.
Time to die."
 「俺はお前たち人間が信じられないようなモノを見てきた。オリオンの肩の傍で炎に包まれる攻撃型宇宙船、タンホイザーゲートの近くの暗闇の中で光輝くCビーム。それらずべての瞬間はときが来れば失われる、雨の中の涙のように。死ぬ時だ。」


 この台詞自体は、脚本家によって何度か書き直された映画のスクリプトで採用されたものだが、ディックは最終的なスクリプトの内容に満足していたらしい。だが、不幸にも映画の発表を前にして世を去っている。

 原作 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" は1968年の作品であり、ディックの想像力には驚かされる。冷戦時代の恐怖がそのままプロットになっていると言われるが、アンドロイドや空飛ぶ自動車が出現していない他、何が今の現実と異なるのだろうか。
 放射能に汚染された酸性雨がいつ降るようになってもおかしくない。それでなくとも気象の変動は大きな問題となっており、酸性雨はとっくに現実化している。

 また、それ以上にこの作品に惹かれるのは"本物とにせものの交錯"による私たちのアイデンティティへの問いかけである。
 本物の動物の飼育がステータスとなっていたり、人工の動物が飼育されていたりという、1960年後半どころか80年代にさえ思いもよらぬことが、今は現実化している。生まれたての感情をコントロールできないアンドロイドのひきつった表情とその行動が現代の抑圧された人間像に重なることも度々である。彼の問いかけたとおり、生身の人間や自然と、人間が造ったものとの境界は徐々に我々の生活や常識の中で区別をなくしつつある。ディックの優れた洞察力を思い知らされるばかりである。

 思えば、学生時代にこの映画を通して始めて、「暗い未来」を感じたのであった。暗い未来を否定したいばかりに、テクノロジーに対する関心を持ちつつも、人工的でないものに憧れを抱いてきたのだと思う。
 最初に公開された劇場版に追加されたラストシーンのように、大自然の中に逃げ込みたかったのだ。
 しかし、現実は叶わず今でも都市生活を余儀なくされている。ただ逃げたいだけでは答えにはならなかったのだ。私は未だにその答えを得ていない。
 ブレードランナーの時代、西暦2019年まではあとわずかでしかない。

 It's too bad she won't live. But then again, who does?

2007/03/11

京都議定書(Kyoto Protocol)

 京都議定書(Kyoto Protocol)が議決されたのも10年前のことである。当時の米副大統領アル・ゴアは批准を推進したが、電力・自動車業界などの反発に合い、クリントン大統領は批准を断念した。続く、ブッシュ政権はこれを継承するとともに、「温暖化の事実の否定」さえ行なっていった。最近公開された、アル・ゴア自身による「不都合な真実」にはそのことが、克明に描かれている。一旦は彼が大統領になったかに思えた選挙は、フロリダで最終的にブッシュに敗れることになる。落胆の一瞬。マイケル・ムーアの「華氏911」の1シーンが思い起こされる。
 そして、不都合な者を「テロリスト」と呼び、戦争を正当化するプロバガンダが横行し、世界中を巻き込んでいく時代に突入していった。同じく最近に公開されたクリント・イーストウッドの「父親たちの星条旗」には政権が戦争遂行のために行なうプロバガンダが作られていくさまが描かれている。
 まともな考えが通用しなくなってしまったような時代においても、米国にはこうした現政権を批判する作品がつくられ公開される。そうして、二大政党制特有の揺り戻しがある。批准されていない京都議定書への見直しの動きも出始めている。米国の批判精神は健全さをまだ保っていると言えるだろう。

 EU諸国は-8%の数値目標をクリアする国々が出始めている。オランダのロイヤル・ダッチ・シェル社では所有する古いパイプライン施設を転用して、CO2を契約した農場に販売するシステムを構築。農場では余剰のCO2を購入してプラントにて植物に配布することで収穫量を向上させているという。エコノミーとエコロジーが両立したわけだ。

 京都指定書に批准した我が国の目標数値は-6%。しかしながら、10年後の現在の実情は+8%である。ブッシュ政権時代に米国に追随していった我が国は、CO2増加においても米国に追随したようだ。
 米国は今、政策を変えようとしているし、もはやブッシュ政権は末期を過ぎようとしている。しかし、現在の日本政府と米国政府とのつながりは希薄なように見える。最近では外交方面においても米国にふられているようだ。
 そもそも、この10年間も誰かのパフォーマンスばかりで、米国との良好な関係があったとは思えないのだが。それが証拠に米国嫌いな人々は最近やたらと増えたような気がするは、気のせいだろうか。

 ところで、この10年たいした経済発展もしていないように見え、大目に見ても8%のCO2の増加に値する生産性が向上されたとは思えない。どうみても非効率なことが行なわれているとしか考えられないのだが、その正体は何だろうか。

 例えば、10年前にはありえなかったこととして、サービス残業がどこでも当たり前になったこと。残業というコストが削減されたのではなく、残業というコストを考えなくてよくなった。すなわち時間あたりの効率を上げること、時短ではなく、成果のみを求めて効率を「自己責任」として押し付けることが当たり前になったことがあげられる。また正社員を減らし、パートタイム、派遣社員、外注化によって固定人件費を削減し、尚、正社員と正社員以外の差別化を徹底化するなども賃金を下げることに徹底した結果といえるだろう。
 これらが、結果として非効率な生産に影響しているのではないかと考えるのは私だけだろうか。

 「正社員だけが有能なわけではない」と主張する派遣社員が活躍するTVドラマが流行っている。マンガのような話だが、私も共感するところがある。97年頃、私は某携帯電話会社に派遣社員として勤めさせていただいたが、当時仕事が面白かったのは、派遣社員の私を正社員と同等に扱ってくれようとした叩き上げの上司がいたからだ。ダイナミックな人材登用がそのときにはあり、派遣という勤務形態もそれに一役買っていたと思えるのだが、今は全く別方向の方向に向かっている気がする。

 一方で、教育問題が喧伝されているわけであるが、「何をいまさら」と私は思ってしまうのだ。
私の生まれる以前から肩書きだけの「学歴社会」という問題はあった。しかし、未だにこの問題が放置されたままどころか、デファクトスタンダードばりに改善される兆しもない。肩書きだけの「学歴社会」のために「受験戦争」があり、「考える教育」がされなかったのではないか。そのための「ゆとり教育」ではなかったのか。結局「ゆとり教育」とはカリキュラムを減らしただけの「ゆるゆる教育」であったことが判明したが、文部科学省はそれを認めようとしない。「受験戦争」の勝者である彼らは「間違えない人々」であるわけだ。
 しかし、間違えもしなければ、新しい答えがでるわけでもなく、「美しい国」づくりのための教育がされていくのだろうか。CO2削減にも貢献できない美しい国のために。

 指導力、判断力、批判力、これらが今後のダイナミックな10年に必然のものとなるはずだが。子供たちの教育を考える前に自分たち大人の社会の見直しをしなければならないと思うのだが。大人が変われば子供も変わるのだから。

2007/01/07

ナホトカ号

 10年前の今日、 ロシア船籍タンカーが大しけの日本海(島根県隠岐島沖)にて破断事故によって浸水沈没し (1月2日)、船体から分離し漂流した船首部分が大量の重油とともに福井県三国町安島沖に座礁した。 「ナホトカ号重油流失事故」。

 阪神・淡路大震災を経験したこともあり全国からボランティアが集まり、汚染された海岸の清掃にあたった。
NGOやボランティアはインターネットを活用し、迅速な情報収集と配信を行なえた。ネットワーク元年とも言われている。

 当時、私は8年間勤務していた会社を退職し、何か自分が役に立てることを探していた。阪神・淡路大震災のときには、なかなか情報を得られなかったのと行動を躊躇していたため、震災後の様子を確認することはできたものの何も役に立てなかった。しかし、この事件のとき私は某NGOの活動に参加しており、その仲間が所属していた某自然食品宅配会社の呼びかけによるボランティア召集に応じて、深夜バスで三国町に向かった。

 参加していたインターネットのメーリングリストにも、現場の様子や海外からの支援申し出などの様子が報じられていた。それに対して行政側の対応は、いかにも後手後手となっているように思えた。関係省庁、自治体の連携対応ができているとは思えなかった。三国町の美しい海岸線に無残に漂着した重油を私たちは手柄杓ですくうしか方法がなかった。

 10年たった今、状況はどのように変わったのか?
 事故の解決は補償問題だけではないはずだ。再度同じような事故が起こった場合に、もっと迅速に関係省庁や自治体が動くことができ、被害を最小限に止めることができるのか。事故後、NGO やその他の民間団体を中心に「ナホトカ号から学んだこと」を原点に様々な取り組みがされたことは聞くが、行政機関では何らかの改善が行なわれたのだろうか。政治家が蟹を喰うパフォーマンスをしていたことは記憶しているが、それではお話にならないだろう。
 事故後の重油で汚染された砂の処分に関して、産業廃棄物業者の不正をきっかけに問題が発生しているというニュースを最近見かけた。
 
参考:
MSNニュース 毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/photo/news/20070105k0000e040075000c.html
読売ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/feature/kankyo/20060808ft05.htm

 こうした環境災害から生態系や野生動物を守るということに関しては、災害でなくとも生態系や野生動物を守るということにどれだけの配慮があるのか、我が国の行政の方針は見えてこない。特に海洋の生物(海岸を含む)に関してはすべて水産資源とみなされ、水産庁の管轄になっているのが現状だが、水産庁が行なっている「資源調査」には保全するという観点や生態系という観点が抜け落ちているのではないかと思うのは私だけだろうか。
それ以上に情報開示がされているのかどうかもわかりずらいのだが。
 「環境」という観点からすれば、陸上動物と海洋動物とで管轄官庁が分かれているのもいかがなものか。環境「省」と格上げになったわけだから、農林水産省と対峙する、つまり陸海の生物の扱いを産業側と非産業側とで検討するというのは理にかなっていると思うが。

参考:
水産庁 
http://www.jfa.maff.go.jp/
環境省 
http://www.env.go.jp/

 もう一つ10年後といえば、インターネットという通信インフラの環境も大きく変わった。
 もちろん、こちらは環境としてかなりの進歩をしたのだが、その使われかたについてはどうだろうか。一般的になったことはすばらしいことなのだが、ビジネス目的または個人の自己顕示欲のために、WEBはアクセス数の向上ばかりが意識されすぎてはいないだろうか。その中で重要な情報が埋没してしまっている気がする。
 特に、我が国では公共の情報公開整備が遅れていることは否めないだろう。我々自身が関心を持つようにすることはもちろん、情報を公開する側の工夫や意識改革が必要だろう。いつまでも「知らしむべからず」では、政治に関心を持ちようがないではないか。


 

2007/01/06

四十にして惑わず...

「四十にして惑わず」と言いたいところだが、この十年間は迷いっ放し、暗中模索もいいとろだった。だが、そうであるからこそ確信が持てることもあるのだと今は開き直りたい。
 四捨五入で四十となる、私のこの十年間とは、人生何度か目の挫折から方向転換してIT業界といわれるところに身を投じた十年であり、日本のインターネットの草創期からの十年と言ってもいいのだろう。それはまた、バブル経済が崩壊し、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災などの国内の大事件を経て、日本の安全神話が過去のものとなったお先真っ暗時代に始まり、期待の21世紀の開幕は9.11事件、イラク戦争、などの決して明るいとは言えない事件の続出であった。「失われた10年」とも言われる時代とも重なる。迷いながらも、あっという間に過ぎた私の「不惑」の歳月以前を振り返りつつ、次なる時代へと結びつけられそうなことが書ければ幸いだと思う。

 こんなことを書き始めたのも、閉塞感が、もういいかげんに来るところまで来たのだから、振り子のゆり戻しがあってもいいだろうという僅かな期待からである。折りしも、米国では共和党が中間選挙で大敗した。小泉政権も終わった。日本ではまだきな臭い動きが止まらない感があるが、少なからず米国の動きに影響されることは間違いないだろう。 良い具合に影響されれば良いのだが。

 日本人は熱しやすく冷めやすい、そして忘れっぽいとつくづく思う。
「咽元過ぎれば熱さ忘れる」の喩えのとおり、そして「熱り冷めれば、」を繰り返す者たち。
過去を振り返り、歴史に学ぶことができないのは、今に始まったことでもないし、人間の宿命かもしれないが、つい先日のことも忘れて、今この瞬間しか見ないのは、いかがなものかと。

 苦言めいた話ばかりだが、ご容赦願いたい。