2007/05/05

造られた記憶

”「ブレードランナー」まであとわずか”より続く。



再び「ブレードランナー」から
デッカードが、恋人となるレイチェルに、自分がレプリカント(アンドロイド)であることを気がつかせてしまうシーン



Rachael: You think I'm a replicant, don't you?
あなたは私がレプリカントだと思っているのでしょう?
Rachael: [Pulls out photograph] Look. It's me with my mother.
(写真を見せながら)見て、母と一緒の私よ。
Deckard: Yeah?
ああ。
Deckard: Remember when you were six? You and your brother snuck into an empty building through a basement window ... you were gonna play doctor? He showed you his, and when it got to be your turn you chickened and ran. Remember that?
You ever tell anybody that? Your mother? Tyrell? Anybody, huh?
6歳のときのことを憶えているか?君と君の弟は空きビルに窓枠から入り、君たちはお医者さんごっこをしようとした。弟は先に彼のモノを見せた、君の番となり君は怖くなって逃げた。憶えているかい?
君は誰かにそのことを話したか?母親に?タイレルに?誰かに?え?
You remember the spider that lived in a bush outside your window? Orange body, green legs? Watched her build a web all summer. Then one day there was a big egg in it. The egg hatched...
君は窓の外の藪にいた蜘蛛を憶えているか?オレンジ色の身体、緑色の脚? 蜘蛛の巣を夏中見ていた。ある日、大きな卵がそこにあり、卵が孵化し、
Rachael: The egg hatched...
卵が孵化して、
Deckard: And?
そして?
Rachael: ...and a hundred baby spiders came out. And they ate her.
たくさんの赤ん坊の蜘蛛が出てきて、そして、彼らは母蜘蛛を食べた。
Deckard: Implants! Those aren't your memories. They're somebody else's. They're Tyrell's niece's.
移植だよ!それらは君の記憶じゃない。誰かの。それはタイレルの姪の記憶さ。
Deckard: Okay. Bad joke. I made a bad joke. You're not a replicant. Go home. Okay?
いや、冗談さ。悪い冗談を言ったのさ。君はレプリカントじゃない。家に帰りな、いいね。
Deckard: No really, I'm sorry. Go home.
うそだよ、ごめん。家に帰りな。


レイチャルはタイレル博士が人間以上のアンドロイドを作ろうとした試作品だ。タイレル博士はレイチェルの不安定な感情を落ち着かせるために、「過去」を与えたのだという。
もし、本物の人間の話だとしたら、次のようになるのだろう。
「レイチェルは不幸にも孤児となって親戚に預けられ、あたかもその家の子供であるように育てられた。そして、ある日、育ての親が自分の親でないことを知る。戸籍を見てしまったのだ...」よくあるアイデンティティ喪失のシーンだ。

しかし「移植」という強烈なプロットによって、ここでは「感情と綾をなす人間の記憶」がクローズアップされ、それらが「何者かによって創られたもの」である可能性が示唆される。
たとえ造られた記憶であっても、己が信じてきた記憶を覆すことには痛みが伴う。記憶はアイデンティティそのものだからである。そして、遠い記憶は己にとって”甘美な”ものとなるのが常だ。

造られる可能性があるのは個人の記憶よりも共同体の方が圧倒的に多い。古今東西の神話がその国において神話たりえるのは、神話という物語を通して、共通の記憶ならびに感情が生まれるからだとも言える。そして「感情と綾をなす人間の記憶」であるからこそ、それは思考にさえも影響を与える。
さらに故意にそのような感情に刺激を与えることで、狂信的な国家への忠誠心を培えることは、この約半世紀の歴史が示すとおりである。誤解のないように言うが、それは一国の話ではなく、過去の話ばかりではない。戦争とは、感情を煽ることで共同体意識を操る強烈なプロバガンダを用いて遂行されることが殆どだ。

最近やたらと「感情的になりがちな」情報が目にあまる。冷静に事実を把握せず、他者の観点を省みずに一直線に結論へと走る傾向は、対抗軸の無い政治状況にも影響していると思われる。大本営発表と「わかりやすく単純な」耳心地のよい情報には気をつけるべきだろう。ワンフレーズで事足りる事実など殆ど無いはずなのだ。

2007/05/03

「ブレードランナー」まであとわずか

 フィリップ.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" を映画化した「ブレードランナー」 "Blade Runner"が発表されて、1/4世紀が経つ。
 だが、映画のクライマックスの台詞とそのイメージは、私の中に強烈に記憶されている。このネクサス6型アンドロイド「レプリカント」ロイ・バティの最後はインターネットの出現とともに、そのアーカイブの中に取り込まれた。20世紀の歴史に刻まれる「1コマ」となるかもしれない。


 "I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain.
Time to die."
 「俺はお前たち人間が信じられないようなモノを見てきた。オリオンの肩の傍で炎に包まれる攻撃型宇宙船、タンホイザーゲートの近くの暗闇の中で光輝くCビーム。それらずべての瞬間はときが来れば失われる、雨の中の涙のように。死ぬ時だ。」


 この台詞自体は、脚本家によって何度か書き直された映画のスクリプトで採用されたものだが、ディックは最終的なスクリプトの内容に満足していたらしい。だが、不幸にも映画の発表を前にして世を去っている。

 原作 "Do Androids Dream of Electric Sheep?" は1968年の作品であり、ディックの想像力には驚かされる。冷戦時代の恐怖がそのままプロットになっていると言われるが、アンドロイドや空飛ぶ自動車が出現していない他、何が今の現実と異なるのだろうか。
 放射能に汚染された酸性雨がいつ降るようになってもおかしくない。それでなくとも気象の変動は大きな問題となっており、酸性雨はとっくに現実化している。

 また、それ以上にこの作品に惹かれるのは"本物とにせものの交錯"による私たちのアイデンティティへの問いかけである。
 本物の動物の飼育がステータスとなっていたり、人工の動物が飼育されていたりという、1960年後半どころか80年代にさえ思いもよらぬことが、今は現実化している。生まれたての感情をコントロールできないアンドロイドのひきつった表情とその行動が現代の抑圧された人間像に重なることも度々である。彼の問いかけたとおり、生身の人間や自然と、人間が造ったものとの境界は徐々に我々の生活や常識の中で区別をなくしつつある。ディックの優れた洞察力を思い知らされるばかりである。

 思えば、学生時代にこの映画を通して始めて、「暗い未来」を感じたのであった。暗い未来を否定したいばかりに、テクノロジーに対する関心を持ちつつも、人工的でないものに憧れを抱いてきたのだと思う。
 最初に公開された劇場版に追加されたラストシーンのように、大自然の中に逃げ込みたかったのだ。
 しかし、現実は叶わず今でも都市生活を余儀なくされている。ただ逃げたいだけでは答えにはならなかったのだ。私は未だにその答えを得ていない。
 ブレードランナーの時代、西暦2019年まではあとわずかでしかない。

 It's too bad she won't live. But then again, who does?